まちを歩いてまちの雰囲気に浸るだけでは飽き足りない二人の教員が,ある日,かつての水路(品川用水)の痕跡を発見してしまったことをきっかけに,まちを観てコミュニティーの成り立ちの今昔に想いを馳せる(一種の)コツ集を制作してしまいました.われわれはそれを「まち観の型ことば」と呼んでいます.まちを観る見方であり,まちを語ることばでもあるという意味の呼称です.現在49個の型ことばができあがっています.
われわれがつくった型ことばのなかで興味のあるものを持って(図の2),多くの人にまちを歩いてまちを観てほしいと思っています.
そのひとたちにとっては,まずは型ことばをつくった他者の視点で,まちを歩いて観るわけです(図の3).歩くための房具として,型ことばと地図をコンパクトに束ねる「まち観房具」(写真参照)も手作りでつくりました.他者の視点で歩くうちに,自分オリジナルの型ことばをみつけるかもしれません(図4).
さて,型ことばの制作以外に,もうひとつ,とても重要な成果を得ました.
型ことばはまちの見方であり,まちを語ることばであると述べました.
であるとするならば,型ことばを駆使してまちを語ってみるという作業が重要でしょう.
型ことばはいま流行のパタンランゲージの一種です.しかし,パタンランゲージを駆使して体験そのものを語ってみるという研究はほとんど見あたりません.
ことばをつくることはとても重要ですが,それをつかって生活を語ってみることこそが,生活実践知の研究に必須だと思っています.
実際に歩いたまちには型ことばが数多く集中するエリアが存在することに気付きました.そこで,われわれは型ことばを散りばめた物語を書き,そのエリアにその物語を付することにしたのです(図の5).物語を「まち観がたり」と呼んでいます.現在4つのまち観がたりができています.諏訪が書いた「弁天町今昔」(新宿区弁天町)と「水の坂」(世田谷区野沢),加藤が書いた「水路に沿って」(目黒区武蔵小山)と「場所の時間」(新宿区牛込柳町)です.
まち観がたりは,本人にとっては,まちを観た体験をメタ認知的に振り返るプロセスとして機能します.それだけではなく,他者にとっては,まち観がたりの存在こそ,まち歩きに興味をいだく入り口になります.型ことばを「はい,どうぞ」と渡されても,その制作プロセスに関わらなかった他者には興味を抱けないし,使い方もピンときません.しかし,まち観がたりを読めば(図の1),そこに散りばめられている型ことばの幾つかには興味を抱ける(図の2)でしょう.物語は人のこころに訴えかける力と構造を有しているのです.
話しを戻すと,他者の視点で歩いていても,いきなり自分オリジナルの型ことばをみつけるのは敷居は高いかもしれない.
それならば,まずは他者の型ことばをつかって,自分なりにまちを語ってみる(まち観がたりをつくってみる:図の5)のが得策かもしれません.
そして2週目のサイクルに入れば,今度は自分オリジナルの型ことば参照をつくれることでしょう.
というわけで,まち観帖は,まち観房具,まち観の型ことば,まち観がたりの3つコンポーネントからなります.われわれは「他者のまち観がたりから入って,型ことばに興味を抱き,しだいに自分の型ことばとまち観がたりを手に入れる」という感性学習方法論をつくったのだと思っています.(「まち観帖の手引き」を参照).
まちを観て語るというドメインは一種の例題であり,生活実践知の研究対象になるであろう,様々なドメインに適用可能な方法論だと自負してます.
詳細はこちら土地の形状や大きさに注目する × 人びとの住まいや関係性について考える
道が交差点でクランク状にずれている × かつての水路であることを感じる
直線上に細く続く道にアップダウンがある&道幅が急に変わるスポットがある × 道幅が変わる前後を行ったり来たりして、コミュニティ感のつながりの有無を考える
台地を背にする寺 × 視線も想いも寺で留まり、台地につながり感をもてない