第16回 『認知科学のこれから』

心脳問題

 認知科学と聞いたときに、「人が何を考えているかを扱う学問よね」と思うことは、概ね間違っていない。本稿は、認知科学の歴史を解説する小文としたい。
 脳科学は認知科学の一分野であるけれども、その全てではない。「何を考えているか」は、素直に読めば「心に何が生じているか」である。脳科学は「脳というモノの中で何が起きているか」を調べる。心脳問題という言葉がある。心が脳の上に立ち現れていることは確かなのだが、心は物質的現象ではない。脳で何が起きているかを調べただけでは、心は捉まえきれない。
 心脳問題は、従来の意味での「科学」が、心を扱うのに十分の装備がされていないことを示している。デカルトが心身二元論を叫んだことを端緒とする科学的方法論のテーゼは、客観性、普遍性、論理性である。中村雄二郎は著書『臨床の知とはなにか』で、近代科学は知性を扱うには限界があると説いている。
 論点は幾つかあるが、何よりもまずは、客観的に人の心を観測することができない点である。脳科学は、主に、脳の各部位における血流を測定することで、与えた作業と部位活性度の関係を捉え、脳の各部位の働きや繋がり具合を推定しようとする。脳を客観的に観測すると、当然そうなるのであるが、やっていることは、モノとしての脳で起きている客観的に把握可能な現象の観測である。生身の人間として、心で生じていることをはたと考えてみれば、そレは脳の物質的現象とは程遠いことがわかるはずだ。心脳問題とはそのジレンマのことを指す。

内省から行動主義へ

 認知科学は、そのジレンマと闘ってきた学問なのだ。20世紀初頭の心理学は、心を扱う手法として内省(レトロスペクション)に重きを置いていた。しかし、内省は主観的な手法である(客観的ではない)という批判が次第に強まり、心理学は「科学」にならんとした。
 そこで生まれた流派が「行動主義」である。科学たらんとして主観的な観測を廃し、客観的観測だけで心を扱おうとした。人に与える刺激(S)とそれに応じて人がなす反応(R)をペアとみなし、S-Rの関係性から内部の心を推定しようとした。SもRも客観的に観測可能だからである。例えば、犬に餌を見せる(S)と涎を流す(R)。そこから心を読み取ろうとする。
 読者のみなさんも想像がつく通り、行動主義には批判が集まった。扱っているデータは表面的現象であり、肝心の心がブラックボックスのままではないかと。心を扱いたいのであればブラックボックスのままで良いはずがない。そういう批判を糧にして、そして、時を同じくしてコンピュータが初めて世に登場したことと大いなる関連を持ちながら、新しい学問としての「認知科学」が立ち上がった。この動きを「認知革命」(cognitive revolution)という。

情報処理モデル

 コンピュータは、情報を蓄えるハードディスクと、処理容量としてのメモリーと、データの入出力機能を有する。人は、過去に獲得した「知識」を蓄える長期記憶を有する。知覚系により得た情報を、「知識」を使って処理し(計算し)、計算結果に基づいて、運動系が世界に働きかける。知識を使って処理するためのエリアとして短期記憶も有する。当時の認知科学は、コンピュータのアナロジーで人の心をモデル化することで、行動主義におけるブラックボックス状態を打破しようとしたのだ。「情報処理」というモデルである。心で考えることを、情報を処理(計算)することと同義であると捉えたのだ。
 このパラダイムは約30〜40年もの間、認知科学や心理科学の主流となり、人工知能という学術領域をも生むことになった。70年代後半から80年代前半、人工知能は第二次ブームを迎え、情報処理モデルを礎として、数多くのエキスパートシステムが制作された。専門家が有する「知識」をコンピュータに格納して情報処理をさせれば、コンピュータにもエキスパートな振る舞いができるのではないかと、研究者を含め世界中が夢見たのだ。私も大学院生の時に、身近な例題で幾つかのエキスパートシステムを制作した。
 しかし、やがて(世が発展する過程における常なのだが)、情報処理モデルの限界が叫ばれ始める。80年代から90年代にかけてである。自分でプログラミングするとすぐわかるのだが、エキスパートシステムは人の心の知的さからは程遠い。それはそのまま、情報処理パラダイムの限界といって過言はない。改善すべき点は多岐にわたる(現在でもその全てが解明されてはいない)のだが、ここではほんの少数だけを指摘するに留める。
 まず、暗黙知(身体はわかっているけれど、言葉にしにくい知)を「知識」として人から取り出せないこと。そして、心と外部環境を完全に切り分け、知覚という入力と行動という出力だけを両者のインターフェースにしたことである。
 知覚をインターフェースと捉えると、知覚=信号の受動的な入力とみなすことになる。しかし、実情は、人は世界に存在するすべての信号に注意を向けるのではない。受け入れるものごとを能動的に選択しているのだ。つまり、本来は、知覚は思考に影響されて刻々かわる。実は、認知の基本をなす3つの行為、知覚と思考と行動は、互いが他に影響を与えながらそれぞれが変化する。これを「認知カップリング」という。

Situated cognitionと身体性

 認知カップリングの考え方に則ると、環境はもはや人の心の外側の存在ではなく、心と環境が一体を形成したシステムであると考えることになる。90年代あたりから、情報処理モデルに代わるパラダイム、俗にいう「状況に埋め込まれた認知(situated cognition)」が隆盛してきた。環境(状況)は常に揺れ動く。人の心も臨機応変に反応して、知覚し、思考し、行動する。環境がどう揺れ動き、環境の中のどういう要素が心と関係を結ぶかについては、予め想定できないことも多い。したがって,situated cognitionの考え方は「モデル化」といったぱきっとしたものではない。
 そして、さらに昨今、「身体性」の考え方も立ち上がってきた。暗黙知とは身体を持っているが故に生じる現象であり、身体と言葉(思考を司る大きな要因)の相互依存関係こそ(これを「身体性」と呼ぶ)が、situated cognitionの現象を生じさせているのだという考え方である。

打破して未来へ

 内省主義、行動主義、情報処理(認知革命)、状況に埋め込まれた認知(situated cognition)、身体性。数々の遍歴を遂げてきた認知科学であるが、残念なことに、日本の認知科学研究の多くは、いまだ、情報処理パラダイムに留まっているものが多い。あるパラダイムの隆盛という歴史があったとしても、人の心の実情と合わなくなってきたとき、どうそれを打ち破るか? 認知科学研究にはモデリングが必要という主張もいまだに多いが、過去のモデリングの枠内を出て、新しいモデルを立てようと勝負に出ることは必至であろう。新しいモデルや新しいパラダイムを自ら打ち立てるためには、過去の考え方に縛られず、まずは世界の実情と自分の身体の声に真摯に向き合い、心をどう探究すればよいのかを思案せねばならない。

(諏訪研新聞 平成30年7月4日付)