第18回 体性感覚に向き合えば世界の見方が変わる

体性感覚

 体性感覚とは、触覚や圧覚といった表面知覚、筋肉や腱が動くことに伴う自己受容感覚や振動覚、内臓感覚などからなる総称である。簡単に「体感」とか「身体感覚」と呼ばれるものと捉えて齟齬はない。姿勢良く首筋がすっと伸びているときには、身体に一本の筋が通り、頭も冴えわたっているように感じるものだ。そういう文章で表現される身体感覚のことを指す。自分の主張を熱っぽく語っているとき、相手の目を見つめ、真剣な面持ちで、口角に泡を飛ばして、姿勢も前傾しているかもしれない。そんなとき、自分でも「前がかりになっているなあ」という身体感覚を覚えるかもしれない。


体性感覚は「見える」

 体性感覚は決して他者に直接知覚できるものではない。しかし、口角に泡を飛ばして語りかけてくる相手からは、「圧力」や「前がかりな熱意」を感じるものである。私たちは相手の体性感覚をあたかも知覚するように感じることがある。
 より厳密に言うならば、客観的に観察できる身体の様子(前傾姿勢、口角に泡がたまっていること、見据えてくる眼)を捉えて、その裏の体性感覚を想像できるということかもしれない。見える「表」から、その背後に潜む「裏」を想い、その二重構造を感じ取るのだ。


「エネルギーのようなもの」が合う

 自身や相手の体性感覚を、そしてその微妙な差異を、感じ取ることができると、世界の見方が劇的に変容するはずである、というのが今回の主張だ。
 渋谷ハチ公前のスクランブル交差点は、今や世界的に有名である。歩行者信号が青になるや否や、すべてのコーナーから歩行者が溢れ出し、思い思いの方向に歩き出すのだが、ぶつかる気配もなく、皆、無事に歩き終える。ほぼ驚異的である。おそらく、各々が、他者のあちらこちらに「向かうエネルギー」を感じ取り、それに応じて自身の「向かうエネルギー」を調整しているからではないか。「向かうエネルギー」は体性感覚である。角を右に曲がるとき、右に曲がるための身体部位の所作が生まれるとともに、「右に曲がりたいエネルギー」が身体の中に沸き起こる。それは他者にも感じ取れるのだ。
 雑踏の中を歩き抜けるときの私を振り返ってみる。誰か特定の人に意識を当てて自分の動きを調整しているというモードでは、決してない。むしろ、誰にも焦点を当てず、場全体をぼやっと見て、場全体のエネルギーを感じ取ろうとしている。すると、多人数の「向かうエネルギー」が凝縮する地点や、誰も向かっていない「エネルギーの谷間」があるのを感じる。そして、刻々と変わる場に応じて、自身の「向かうエネルギー」をエネルギーの谷間に向けようとすると、周囲に圧迫感を与えることなく歩き抜けることができるのだ[諏訪2019]。相手と自身、双方のエネルギーを感じ、場全体のエネルギーを均一化させるという感覚である。もはや、相手と自分が別個に存立するというよりも、連動する一つのシステムのように感じられる。


投手にタイミングを合わせる

 野球でも似たことを感じている。打者としての最大の関心事は、投手のフォームにタイミングを合わせることである。様々なフォームの投手がいる。どんな投手にもうまくタイミングを合わせるためにはどうすればよいのか。投手の身体の特定の動きにきっかけを見出そうとすると、一部の投手にしかタイミングが合わない。どんなフォームの投手でも打者に向かってくる瞬間があり、その瞬間には、投手の「向かうエネルギー」が一気に高まる。投手のエネルギーの高まりを感じ取り、自身のバックスイングのエネルギーの高まりを同期させると、不思議と、どんな投手にもタイミングが合う[諏訪2019]。
 雑踏を歩く場合と違って、場のエネルギーの谷間に自身のエネルギーの高まりを合わせるのではない。相手と自身のエネルギーの高まりを合わせるのだ。その理由は、投手に(実際には投手が投げる球に)バットを「ぶつける」ことが、打者の仕事だからだ。雑踏の場合は「ぶつかりたくない」から、エネルギーの谷間に自身を向かわせる。
 いずれにせよ、体性感覚のレベルで世界を見ることが、うまく生きるための方略として良さそうである。


お酒と食材の相性

 どんな高価なワインでも、一緒に食べる料理を間違うと、せっかくのワインが台無しになる。ワインはマリアージュが厳しい飲み物である。30代の頃よく通っていた場末のお好み焼き屋でのこと。そこのご主人が「これ一緒に飲んでごらん」と、にごり酒を出してくれた。飲んでみると、舌を刺すような鋭い味わいでお世辞にも上手いとは言えない。「なんちゅうものを勧めてくるのよ!」と思った私が浅はかだった。お好み焼きをひとくち頬張り、その味わいが消えないうちににごり酒を口に含むと、実に甘く感じられるのだ。目から鱗だった[諏訪2018]。
 お店のお好み焼きソースが身体にもたらす体性感覚と、にごり酒がもたらす体性感覚が、実は非常に似通っていたということだと理解している。あの主人、恐るべし!
 マリアージュとはそういうことである。まず、いま飲んでいるお酒があなたの身体にもたらす体性感覚をしかと感じよう。その余韻に浸りながら、メニューに載っている料理をざあっとみて、各々の料理がもたらすであろう体性感覚を想像してみる。お酒と、体性感覚が似ている料理があれば、先入観を一切捨てて注文してみよう。肉には赤ワイン、白身魚には白ワイン、などと誰かが言った公式を固定観念のように適用しても、必ずしもマリアージュは成り立たないことが多々あるし、そもそも新しい発見が見出せない。白身魚でも油分の強いものは、白ワインと合わせると妙に魚臭くなることがある。


輻輳性

 諏訪研博士課程の堀内くんは、最近「輻湊性」という概念を力説している[堀内2019]。歩くときも走るときも、足裏が地面から剥がれるような体性感覚があれば、ともに理想的なものとなる。歩くスキルと走るスキルが別個に存在するわけでないのだ。「歩き」や「走り」は、客観的に外部から観測した時の動きの差異の観点から名付けられた、一つの分類法に過ぎない。従来の見方で身体を理解するのではなく、体性感覚の観点から同一性や差異を感じ取ることが、スキル開拓の第一歩であると彼は主張する。従来の観点では全く異なるスキルも、実は、一つの体性感覚に輻湊する(凝縮する)ことは多々あるのだ。
 体性感覚のレベルで見つめてみると、自身や世界の捉え方に革新をもたらすことができるはずだ。



参考文献・URL

[1] 諏訪正樹. (2019). 「間合い」という現象をどう捉えたいか?(『間合いとは何か 二人称的身体論』web春秋はるとあき 連載第一回)、春秋社.

[2]諏訪正樹. (2018). 身体が生み出すクリエイティブ、筑摩書房

 

[3]堀内隆仁、諏訪正樹. (2019). 身体知輻湊性の哲学、人工知能学会第2種研究会「身体知研究会」第28回、SKL-28-02, pp.7-11.

(諏訪研新聞 令和元年7月12日付)