実体に紐付けると伝わる

 生活やからだに根ざさないことを論じるひとを「頭でっかち」と言いますね。第1回記事の用語を使えば「思考がgroundingしていない」になるし、哲学的に言えば「そのひとが使う記号(ことばは記号の一種)は実体に紐づいていない」になります。
 一見関係なさそうに聴こえる話しから始めます。体験したものごとを話すとき、どのように話すと「伝わる」のでしょうか?伝えるのが上手いひともいれば、下手なひともいます。"すべらない話"に出演する芸人は達人です。この問いがなぜ「記号を実体に紐づける」という主題と関係があるのかというと、伝わる話しでは記号が実体にきちんと紐づいているからなのです。

個別具体性を捨象しない

 ではどうすれば記号が実体に紐づいた話しができるのでしょうか?ぼくの仮説は、「体験の個別具体性を捨象せずに記述することが、記号を実体に紐づけ、ひいては相手に伝わる」です。ぼくは野球をやっています。ある日の試合の緊迫場面で、「こんなピッチャー所詮ソフトボールより少し速いだけじゃないか。ソフトボールに毛が生えただけだと思おう」と思って打席に立ち、脱力できて素晴らしいヒットを打ったというエピソードをどう語ればいいでしょう?上の書き方には個別具体的な記述はあまり含まれていません。「ある日」ってどんな日か、ぼくにとってどういう意味の試合か、どんな局面での打席か、相手はどんなピッチャーか、彼のパフォーマンスはその局面まではどんな風で、そのときにはどんな風になっていたか?などなど。
 個別具体性は体験を構成する重要な要素です。体験とは、「そのひと」、「その場所」、「その時」が貼り付いた、名無しでなく固有名詞の、ユビキタスでないものごとです。普遍的っぽく聴こえる示唆や知見を体験から抽出しようとして個別具体性を捨象したら、実はフレーバーのみが香る"体験の上澄み"になります。それは「伝わりません」。かといって個別具体性をすべて記述したら、「すべらない話」どころか「終わらない話」になり、他者は付き合いきれません。個別具体性の何をどの程度記述すべきかは、われわれの日常に遍在する普遍的問いで、明確な答えを出せない難問なのです。"すべらない話"の芸人たちはこの問いを易々と解決してみせていますが、決して簡単なことではありません。

「もの」の記述が大事

 ぼくは最近、この問いに対する仮説を得たと思っています。体験を構成する「ものごと」は、哲学的な言い方をすれば、「もの」と「こと」の総体からなります。「もの」とは、物やひとの物理的存在、その属性、物と物(物とひと)の物理的関係性からなります。「こと」とは、あるひとが「もの」に与えた解釈です。体験を語るときに個別具体性を捨象すればするほど「もの」の記述が薄れます。「もの」の記述が極限まで薄れると、聴き手にとっては話し手が体験した場や時間を想像できなくなります。「話しているあなたの体験」(二人称的)として聴くこともできません。繋がりを感じられない名無しのごんべえのお話しになり下がります。聴き手は、語り手と聴き手の関係性のなかで解釈される二人称(You)の体験を聴きたいのです。そうでないと愛着がわかず、「伝わらない」のです。
 つまり、ぼくの仮説とは、「もの」の記述を捨象し過ぎないようにしようというものです。話し手が「そのひと」である所以、どんな場面だったか、どんな時間だったか、などを垣間見ることを促す手がかりとしての、「もの」の記述を散りばめて話す(書く)べきだと思います。先の野球の例では、ぼくなら、

などを語りに含めると思います。これらは、その緊迫した局面で何故「ソフトボールに毛が生えただけだと思おう」とぼくが思えたかに大きく関与した重要な「もの」の記述だと思うからです。

普遍知信仰への警鐘

 このエッセイは、個別具体性を捨象して三人称的な表現で普遍的な知見を語ろうという世の風潮に警鐘を鳴らすものであります。一般化して普遍的な知を語ろうとするあまり、それを生む源の個別具体性から乖離すると、実体への紐づきを失った記号を操作することになります。「もの」を捨象して「こと」だけを記述すると、確かに記述は簡潔になります。簡潔さはポータビリティを高め、色々な場所に携帯して適用できるかのように思えます。でもそれは幻想だと思います。一般化された知を適用して生きている/学んでいると錯覚しているだけで、その生き方は生の実体からは乖離します。身体性の欠如、受け売りの横行につながりかねません。
 「記号を実体に紐づけること」って生きる上でとても重要なのです。



(諏訪研新聞 平成24年10月17日付)