コトのデザイン

 第2回にも登場したモノとコトですが、今回は、哲学的な観点から論じます。その前に、なぜ、モノとコトが重要なのかに触れておきましょう。
 唐突ですが、「デザイン」ってどういう行為でしょうか?単純に、新しいモノをつくることがデザインであると考える人が多いでしょう。しかし、新しいモノだけではデザインとは言えません。そのモノが経験したことのないことを提供する、生活の意識を変える、生活自体が新しくなる、そういったコトを生み出す行為がデザインです。言い古されたフレーズですが、モノを介して新しいコトを生み出すことなのです。
 僕は学びの研究者です。家、教室、職場など、様々な場所でひとは学ぶための工夫をします。書きやすいペンを購入するだけでメモを書く頻度があがり、考える習慣がつくなんてことがあります。書きやすいペンというモノを導入したことによって、“頻繁に思考する習慣”というコトを生み出したのです。あなたが学びをデザインしたのです。

モノだけでなくモノゴトの研究が必要

 情報メディア技術を駆使した先進的なデバイスやアプリはモノです。ユーモア溢れる外見でコンセプトも面白そう。それらはどんなコトをもたらしてくれるか?ユーザーならそう考えます。しかし現状は、コトの研究を行う研究者は少ないです。多くのインターフェース研究やメディアデザインがモノの研究に留まるのは、とても残念です。まずは研究者が自分で使い、生活をどう変えるかを一人称的に実践探究してほしいです。思うほどコンセプトが機能しないかもしれない。別の波及効果(コト)が生まれるかもしれない。優れた研究者ならそこからリデザインのアイディアを得たり、別のモノのデザインを思いついたりします。モノの研究だけやっていても駄目なのですよ。モノとコトの両方を研究しなければ。

モノとコトの定義は心のなかにある

 このように、モノとコトということばで世の中の様々なことが語れます。その癖をつけるだけで世の中を観察する眼が育ちます。皆さんをモノゴトの世界にお誘いする意味も込めて、さて本題に移りましょう。モノとは何か? コトとは何か?
 モノとコトの定義はわれわれの心のなかにあります。え〜?!そんな曖昧な!定義を語ってくださいよ。そう不満がる読者もいるでしょう。でも、よく考えてくださいよ。われわれは日々、モノ/コトということばをきちんと使い分けているのです。書く時も発言する時も「〜というもの」と「〜ということ」を決して間違いません。これは、日本語を母語とする話者の全員の心にモノとコトの定義が潜むことを示唆するのではありませんか?

現象学でモノゴトを定義する

 モノとコトの違いを僕に紐解いてくれたのは現象学哲学[1]です。「木から落ちたりんご」はモノです。「りんごというものは木から落ちる」と言っても、「りんごということは木から落ちる」とは決して言わない。一般に、物理的な存在物とその属性(サイズ、形、物理的信号としての色など)をわれわれはモノだと捉えます。品詞で言えば、抽象ではない名詞です。モノは客観的に観測可能です。
 一方「木からりんごが落ちたということ」という文言が発せられたときには、あるコトが生じています。それが包含するのは、「落ちた」という客観的事象に留まりません。その事象に接したひとがそれに付する意味、解釈、連想、思考といった主観をも含みます。例えば、ある物体が「白いということ」はコトだけど、それが有する色としての「白」(某波長の光だけを反射するという属性)はモノです。「白いということ」で始まる文章をある人が書こうとしている時点で、その色がその人に思考をもたらさんとしています。「〜ということ」と書いた/発言した途端、その事象に接したひとの存在が浮かび上がり、コトはそのひとの主観的経験を意味します。
 では、「落ちた」という客観的事象は、モノでしょうか?物理的な動作/状態概念です。「あるモノがある場所に移動する」とか「AさんがBさんをひっぱたいた」なども客観的に観測可能な物理的事象です。誰それの主観とは関係なくそこにその動作や状態が存在する以上、コトには分類できません。これらはモノなのかどうか?それは難しい問題です。同じ範疇として、位置関係(3つのものが一直線にあるとか、2つの場所には高低差があるとか)や比較関係(AはBよりもサイズが大きいとか)があります。この議論は次回以降に持ち越しです。僕の現時点での考えを述べると、動作/状態/関係性はモノではありませんが、「からだが現象学的知覚で相対する対象」であると考えるのがよいのではないか?対象はモノの仲間だと考えようと思っています。
 次回は、述語論理という世界記述の手法との関係で、モノとコトを語ります。


参考文献
[1]木村敏. (1982). 時間と自己, 中公新書.

(諏訪研新聞 平成25年2月17日付)