第2回記事で、記号と実体をつなげるためには、モノの記述が大事だと述べました。記号は、からだが行う活動や生活実体から生まれた媒体であるのに、その活動や実体から乖離して一人歩きすると、よろしくありません。どこかで聴いてきたコトを口先でしゃべるなんてことをやってしまいます。自分が使う記号(典型的にはことばや概念)が実体から乖離しないような生き方をするにはどうすればよいのでしょうか?
 私が思う結論を先に述べます。自分のからだが接している“モノの世界”への眼差しを自覚して、手間を惜しまずことばで語るという意識的な努力を行えば、記号がからだや実体から乖離しないような生き方ができると思います。本稿は、第2回記事で書いたことを更に詳細に説く回です。

モノの世界とは

 例えば、あなたがある坂道を歩いていて、「この坂、雰囲気がいいね」と感じたとしましょう。そのことばはあなたの体験を表現した記号です。その体験は、あなたのからだが坂道に存在する様々なモノに接し、その物理的な属性や関係性をからだが感じとり、自分なりの意味や解釈を与えることから成り立っています。坂道に存在するモノとは、石垣、家の屋根、家のファサード、道に覆いかぶさる木々の枝、日光、空などです。属性や関係性は多岐にわたります。道には幅があり、ある角度の傾斜があり、まっすぐ直線なのかカーブしているのかという形があります。これらは道の物理的な属性です。道の舗装の表面仕上げ(テクスチャ)はどんな具合か。滑らかに平らなのか、でこぼこなのか。道に面する家の屋根はどんな形なのか。石垣の石はどんな色・形かなどは、すべて道に存在するモノの物理的属性です。木々が道に覆いかぶさっているなら、どんな高さで、どれくらい道側にはみ出ているのか。これは道と木々の位置関係です。覆いかぶさりかたが大きいと、その下を歩くとき見える空の面積は小さくなる。空の面積は物理的属性です。日は照っているのか、曇っているのか。それによって道の明るさが変わります。明るさも物理的属性です。どの方向から日が射しているのか。その角度は、日光、道、歩いている私たちのからだの向きの関係性です。このような属性や位置関係性の総体を“モノの世界”と呼びましょう。からだがモノの世界に接して、それに解釈や意味付けを与えた結果として、あなたは「雰囲気がいいね」という記号を生み出したわけです。


なぜモノの世界は無自覚になりやすいか

 からだはこういうモノの世界に接しているのですが、そのことはつい無自覚になりがちです。それは何故なのでしょうか?ポラニーという学者が、近位項―遠位項という概念でその理由を説明しています。からだからの距離だと思ってよいでしょう。モノの世界は、からだが直に接しているということで、からだに近い、つまり近位項です。一方、モノに対してひとが与えている解釈(コト)は「遠位項」です。ポラニーは、ひとは近位項には無自覚になりやすいと述べています。
 我々はことばという記号を使ってモノゴトを認識し、考えています。からだで感じたことは、ことばにしないままでいると、時の流れとともにすぐ消え去ってしまいます。遊園地に行って楽しかった経験も、何がどう楽しかったのかをことばに残しておかないと、楽しかったからだの感覚だけが残るだけになります。またその感覚も、そのうち流れ去ってしまうこともあります。しかし、ことばで表現するという作業には、表現対象を観察するという行為を伴います。観察するためには、一定の距離をとらねばなりません。哲学的なことばでいえば、観察には主客分離が必要ということになります。観察する主体が、観察される客体と分離していなければ、観察はできないということです。坂道に存在するモノの世界には無自覚のまま、ただ「いいね」としゃべってしまう理由は、もうお解りだと思います。モノの世界はからだが直に接し、からだに近い位置にあるだけに、ことばで表現するための一定の距離がとれないということなのでしょう。


近位項は本当にことばにできないのか?

 しかし、何が近くて何が遠いかということは、相対的なことではないでしょうか?この坂道「いいね」と総括的な感想を言っているときには、「いいね」という総括が遠位で、その感想を支えているからだでの体験が近位です。しかし、そもそも、その坂道にはどんなモノが充満しているのだろう?と自問自答して、ひとつひとつのモノを見てみようと思えば、モノを遠位に置くことも可能ではないかと思うのです。「あ、石垣があるな」「ひとつひとつの位置はいろんな形をしてるなあ」「あ、この岩は下部が深くえぐれているから、そこだけ陽が当たらず苔むしているわ」と、ひとつひとつのモノに焦点を当ててみるとどうでしょうか?石垣を構成する岩ひとつひとつを観察対象、つまり遠位に置くことができます。「モノへの眼差しの自覚」とはそういうことだと思っています。いままで灯台下暗しだった岩が、無自覚の海からひょっこり顔を現します。
 実体験を構成するさまざまなモノに丹念に焦点を当て、ことばにする作業をしていると、そのモノに自分がどういう感想を抱き、どんな意味を付しているかが自覚できます。こんどは、感想や意味が遠位になるわけです。そして、その感想や意味の総括として、「この坂道いい雰囲気だね」が生まれていることに気付くのです。そうやって、その総括は実体験としっかりと結びついた記号になります。「どう雰囲気がいいの?」と質問されても、「なんとなく…」ではなく、しっかりと自分オリジナルな感想をしゃべることができます。そういう生活を送りたいものです。



(諏訪研新聞 平成26年7月15日付)