第13回 『理系とか文系とか言ってないで・・・・』

 僕は理系とか文系という分類が嫌いだ。そういう分類で世の中を見る癖がついてしまうと、生活者としても、企業人としても、研究者としても、ろくなことはない。
 大学院時代に人工知能を勉強したことから僕は今の道に入ったのだけれど、知能の研究に携わるために必要な素養は、技術的な専門知識だけではないと思っています。考えるとは、学ぶとは、そして生きるとはどういうことかと問うことが何より必要です。そう問うマインドを有する限り、知能の研究者も自然に哲学、論理学の書を紐解こうとするでしょうし、人や社会の成り立ちに興味を抱き、例えば社会学、文化人類学を勉強することになるでしょう。世間で言うところの文系学問です。ネットワークやセンサーの技術、ロボティクスの知識、そしてプログラミング力を有していると、それなりに知的システムを構築できてしまいます。しかし、技術者が上に挙げたような文系学問に目もくれないとしたら、そういう方がつくるものは決して世の中に貢献できないと思うのです。
 学部生から大学院生駆け出しの頃は、僕も、人文系の書をあまり読まない学生でした。小説だけは高校生の頃から貪るように読んではいましたが。あるとき、ある先輩研究者に書物は読んでいるかと質問されて、「いや〜あまり本は読まないですね〜」と答えたら、批判めいたことは何も仰らなかったけれど目を丸くなさいました。その顔を今でもくっきりと覚えています。決して「読む必要がない」などという意識でいたわけではなく、ただ読む習慣がなかっただけでしたが、先輩のびっくりした表情を見て、「あ、変なこと言っちゃったみたい」と感じたのでした。その日から、僕は少しずつ書物に手を染め始めました。
 技術系の研究者は人文系の書をあまり読まない傾向にあるかもしれません。単なる杞憂であればよいのですが、もし実際にその傾向があるのであれば、社会にとっては憂うべきことです。技術にだけ興味があり、人が考えたり、学んだり、そして社会生活を営むことに関心がない研究者が生み出す技術やシステムは、真の意味での社会貢献はできないでしょうから。お酒の楽しみを知らない人がお酒の研究をしても、生活を彩るお酒は造れません。野球を自分でプレーしたり、ある球団を真剣に応援したりしたことのない人が、野球の身体スキルの研究をしたとしても、スキルが成立する物理的なメカニズムを単に探るだけに終始するでしょう。
 たとえば、「インコースの球を打つ」という、プロ野球選手にも難しいスキルを例に挙げましょう。野球を自分ごととして捉えない研究者は、上手に打てる選手とそうでない選手の差異を解明して、「インコース打ちのメカニズムがわかりました」と研究を終えるのかもしれません。それに対し、もし研究者自ら実際にインコースが打てなくて悔しい想いをした経験があるならば、「謎を解いて終わり」ではなく、今は打てない選手が打てるようになるまでの学びを支援する研究に乗り出すことでしょう。
 世の中の人の生活がその研究対象とどう関わっているのか、その関わりにおいて人はどんな想いを抱いているのか? と、研究者は研究対象にまつわるものごとを自分ごととして捉えるのがよいのです [1] 。野球やお酒が研究の単なる例題なのではなく、お酒や野球というドメインとがっぷり四つに組んで探究するのが、真の研究というものです。どんな研究も世の中を良くするため、そこで生きる人の生活を彩るためにあるのだとすると、研究者にはすべからく人の生に目を向けてほしい。残念なことですが、そうではない技術系研究者が少なからず存在するように感じます。
 もちろん、人文系の書物を読むことだけが、「人が生きること」に目を向ける手段ではありません。書物を読まなくても実際に人の生活や社会に向き合っている研究者も少なからず存在するのでしょう。しかし、研究者である以上、優れた知性を持ち合わせているはずであって、そんな人がより頻繁に書を手に取り、人が考え、学び、生きる現実に目を向けるようになるならば、その経験は必ずやプラスに働きます。勿体無いなあと思うのです。
 本連載の第10回のコラムで、新しい技術を適用した商品・システムが人の生活意識に何をもたらしたかを検証するための認知実験は、実に片手間なものが多いと書きました。その傾向とここで取り上げている現象は、根源が同じかもしれません。つまり、人の生活に向き合わず、駆使した技術や新しいデザインそのものにしか興味を抱かないというメンタリティではないかと。
 研究者である前に、皆、社会を生きる一人の人間なのですから、実は研究と生活はつながっているのだと考える方がより自然です。研究と生活が繋がっているのだとすれば、技術系研究者にとって人文系の学問に目を向けることは必須であると言っても過言ではない。「やれ理系だ文系だ」という分類があることが、本来つながっているはずの世界を分断させている原因なのかもしれない。いわゆる理工系大学の教育は、そういった分断があるという現実に目を向け、対策を練ることが急務ではないでしょうか。

参考文献

[1] 諏訪正樹,藤井晴行. (2015).知のデザイン 自分ごととして考えよう. 近代科学社.

(諏訪研新聞 平成29年1月17日付)