第15回 『お笑いはAIにとっての大きな壁』

IPPONグランプリという番組がある。ダウンタウンの松本人志さん(以下、敬称略で、松本)の企画で、お笑い芸人たちが真剣に大喜利を競い合う場である。無茶ぶりなお題が出て、それに対して突拍子もない解答を瞬時にひねり出して、面白さを競う。お笑い芸人としての実力が赤裸々に見えてしまうので、彼らも必死である。ネプチューンの堀内健(以下、ホリケン)は、普段は、突拍子がなさすぎて面白いのかどうなんだかわからない芸風なのだが、こと大喜利になると、真剣な眼差しで抜群のセンスを発揮し、僕は個人的に好きである。
 番組冒頭の松本の弁に、僕は大きくうなずいた。「AIがこれだけ流行って、人間の能力を超えるんじゃないかと取り沙汰されているんですけれど、芸人には勝てないんじゃないかなと思ってるんです。浜田がパ〜ンと頭を叩いたら、それには勝てないですよ」という趣旨のことを喋ったのだ。
 2〜3年前に『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』にpepperくんが登場したことがあった。AIロボットはどれだけ賢いのだろうかと、出演していた芸人たちも興味津々、視聴者は固唾を飲んで芸人とpepperくんの絡みを見ていた。私もリアルタイムで視聴していた。しかし、少し残念なことに、芸人たちの問いかけや態度に逐一反応することはできず、用意してきた(プログラミングされた)発言を予定調和に繰り出すだけであった。
 ちょっとしたボケさえも予め用意されていて、pepperくんがそれを意気揚々と繰り出した、その時である。浜田は、少し間を空けて、すっと近寄ってpepperくんの頭をパ〜ンと叩いたのだ。スタジオに大きな笑いが生じるとともに、周りの芸人たちも、慌てふためいて浜田を取り押さえる振りを見せた。当のpepperくんはというと、当然のことだが(プログラミングされていないので)叩かれても何も反応できない。「ちょうど、おでこ痒かってん」なんて発言してくれたら‥‥AIロボットにそんな類のことを発言させるために、技術的にどれだけのことをクリアしなければならないか。学者としては少し気が遠くなる。
 そして、最後に、松本が鋭いツッコミを一発。「めっちゃ、プラスティックな音したやん」と。これまた、なんと素晴らしいツッコミか!
 あまりにも予定調和にpepperくんペースで会話が進行することに、「このままでは、お笑い番組としてまずい」と思ったのだろう。浜田は彼特有のツッコミで笑いを取ろうとして、せっかく番組に登場してくれたpepperくんを叩くという暴挙に出た。松本がIPPONグランプリの冒頭で指摘したことは、芸人のそういう臨機応変さなのである。
 クリエイティブであるとはどういうことか。僕は、その問いについて、長年の研究の知見をまとめた見解を、2018年2月にちくま新書から出る書[1]にしたためた。書では、pepperくんが浜田に叩かれるシーンのことも詳しく論じた。IPPONグランプリを題材にして、大喜利のことも論じた。クリエイティブであるための必要条件の一つは、臨機応変に、想定していなかった思考や行為に跳ぶということである。これは、創造的認知の研究をしている研究者のなかで共有された見解であろう。
 では、どうすれば臨機応変に想定外のことに跳べるのだろうか? 工学的な、情報処理的なセンスで考えれば、跳び方のなんらかの原則を見出してプログラミングしておくということになりそうである。しかし、考えればすぐわかるように、プログラミングしておくということは「想定外」ではない。プログラミングの「プロ」は「予め」という意味なのだから。
 これは、実に難しい問いなのだ。人工知能研究から生じた哲学的概念に「フレーム問題」というものがあるが、まさに、それそのものである。想定されたフレームを臨機応変に破って、そのフレームの外の物事をパッと連想する。人間はそれをやってのけるが、コンピュータには(ディープラーニングという素晴らしい機械学習アルゴリズムを備えた現在のAIにも)未だ難問のままである。
 跳ぶ先は想定外ならなんでもよいかというと、そんなことはない。跳び方を見せられた側は、「そんなことに言及しますか! それは普通なかなか思いつかないなあ。でもそれ理解できるわ」とならないといけないのだ。大喜利とは、まさにそういう芸である。
 上記の書にも書いたのだが、大喜利の秘密に少しでも迫りたくて、僕は、かつてのIPPONグランプリで出された一つのお題について、研究室の学生と一緒に、二週間くらい解答を出し続けることをやってみた。素人だから駄作ばかりになることは承知の上で、恥ずかしがらずにどんどん出し続けようねと示し合わせて。たまには、割と素晴らしい解答も生まれるだろう。その時には、どういう思考回路でそれが生まれたかを自問自答してみよう。さすれば、臨機応変にフレームを破って想定外のことを連想する方法について、自分なりの仮説が生まれるのではないか? そう思ったのである。まさに一人称研究である。
 想像通り、少し続けた時に、結構面白い解答が出た。それを基にひねり出した僕なりの仮説は、簡単に言うと(詳しくは書をごらんください)、「知識で跳ぶのではない、身体の発露で何かに着眼するのだ。跳ぼうとしているのではない。本人の意識の中では、着眼しただけ。それが他者から見ると跳んだように見える。」である。
 「身体の発露」で。言うは易し。どのようにそれを実践するか。現象学などをひもときながら、私なりの説を書いたので乞うご期待。  先日のIPPONグランプリは、その仮説を念頭に置きながら、リアルタイムに分析しながら視聴していた。そして、思ったことは、「この仮説、まだまだやな」である。当てはまるパターンのお題も多いが、全く当てはまらなそうなお題もある。もう少し精緻化しなければならないのか、それとも全く異種の仮説にまだ気づけていないのか。
 何れにしても、大喜利は奥が深い。お笑い芸人たちは、それを颯爽とやりこなしていて、あまりに凄い。今回の番組では、オードリーの若林とホリケンの決勝戦になり、ホリケンが優勝した。
 「AIは芸人には勝てない」。松本の一言は的を射抜いている。学者ではないので、フレーム問題という概念が最大の壁であるなんてことは、多分ご存じないとは推察する。しかし、お笑いの世界で真剣に生きてこられた経験から、pepperくんを始めとするAIロボットに何が足らないか、人間のクリエイティブさとは何かについて、本質的にご理解なさっているのだと思う。我々、知能の研究者は、彼の言葉の重さをしかと認識し、これから何を研究しなければならないかを見定めるのがよいのではないか。

参考文献・URL

[1] 諏訪正樹. (2018). 身体が生み出すクリエイティブ, 筑摩書房, 2018年2月.

(諏訪研新聞 平成30年1月20日付)