第4回 “自分のことばを紡いでからだを考える”

2種類のことば

 今回は、ことばに関してどう考えているかを書きます。結論から言えば、ことばは少なくとも二つの種類があります。一つは、ものごとを表現し、知として世に問う/残す、他者と交流するための媒体です。もう一つは、自分のからだを変えるために自分が紡ぎ上げることばです。ことばと聞くと誰しも前者を想うのですが、後者の存在意義を見直そうと僕は言いたいのです。
 僕は、からだで何かを学ぶための理論として“からだメタ認知”を提唱しています。学ぶ対象の代表例は、明示的にからだを使うことを要する身体スキルでしょう。僕も一野球選手として、からだメタ認知手法によって打撃スキルを学ぶことを研究にしています[1]。
 からだで学ぶために何が必要でしょう? 詳しくは文献[2]に譲り、要点だけを述べます。からだで学ぶためには自分のことばを紡ぎ上げることが必須であると思っています。「熟練した技はなかなかことばにできるものではない。からだは自動的にいろんなものごとを処理している」は古くから心理学でいわれている“自動化”の概念です。この概念に照らすと、からだとことばは相性の悪いものどうしと言えそうですが、意外にそうではありません。

からだメタ認知:ことばはからだを変えるための手段

 まずは、からだメタ認知理論を説明します。からだが環境のなかでやっていることを、少しでもいいからことばで表現(ことば化)しましょう。暗黙知なのですべてを表現することは無理です。少しだけでもいいからことば化しましょう。すると、ことばがことばを生むという現象が起きます。認知科学ではこれを外的表象化の効果と呼びます。例えば、考えていることを絵や文字として外に表現することによって、頭だけで考えていたときには気づけなかった様々な関係性がみえてくるのです。“ことばがことばを生むフェーズ”を通じて新しく生まれたことばは、その人にとって新たな視点や着眼点を含んでいます。新しいことばの観点でからだを見直してみると、からだでの感じ方(世界に対する知覚)が変わります。知覚が変わればパフォーマンスも変わります。すると、ことば化できることも変わり、からだとことばのサイクルが活発に回るようになります。そうなればもうしめたもので、やがてからだもことばも変わり、つまりからだでの学びが進化しているというわけです。ことばはからだを変えるための重要な手段なのです。

「ことば化」が生む誤解

 さて、この理論を論文や学会発表で説明しても、多くの方が誤解してしまうことにこれまで何度も遭遇してきました。「“ことば化”は素晴らしい。暗黙知を形式知として他者に伝えるために、ことば化は必要だと思います」という賛同を述べてくださる方がいますが、あまり本質を理解していません。ことばをプロダクトだと誤解しています。「ことばでからだを制御しようなんて本来無理なのですよ。ことばにはならない微妙なところに、からだのスキルのスキルたる所以があるのだから…」というご意見も頻繁に頂戴します。からだでの学びにおいて、ことば化の本質が“ことばで制御”することにあるなどとは、僕は一言も主張してはいないです。
 なぜこのような誤解が生じるのか? それは「ことば」と聞いた瞬間に、冒頭に書いた第一の意味で解釈することが習慣化している人があまりにも多いからではないかと思います。意味を正確に表現し他者に伝えるための“かちっとした”存在が「ことば」であると。そして、ことば化されたことを形式知(プロダクト)として世に残すことが第一目的なのだと。

からだを変えるために、からだからことばを紡ぎだす

 からだで学ぶという現象の本質を理解するためには、その固定観念を一旦横に置く必要があります。からだメタ認知の第一目的は自分のからだを変えることにあり、ことばはそのために「使える」手段です。自分のからだを変えるためのことばは、必ずしも世に問うて意味が伝わる媒体である必要はない。からだの現状を外的表象化する手段として、なんだか妙ちくりんなオノマトペのような媒体であることも多いはずです。デザイナが創造的なアイディアを生み出すために、途中で手描きで落書きのようなスケッチを残すことは一般的ですが、からだメタ認知理論におけることばもそのような存在です。曖昧で、正確というよりもイメージが勝った、本人にしか理解できない媒体です。自分のからだを表現しようとして生まれたことばが、世の人に問うていきなり意味が伝わるような媒体であるわけがありません。連載の第1回記事にも書いた表現で言えば、からだにgroundingしたことばこそが必要なことばなのです。そういうことばをからだから紡ぎだして、ことばがことばを生むフェーズを経て、からだの感じ方を変えていくというサイクルを根気強く回すことが、最終的にからだでの学びを促します。ことばはからだを変えるための手段ですが、からだが変わった暁には、オリジナルなことばが紡ぎだされているのです(それはプロダクトになる可能性もあります)。「ことば」を冒頭に書いた前者の意味で捉えていては、からだでの学びを自分のからだに生じさせることはできないでしょうし、からだメタ認知の本質も理解できないと思います。
 僕は昨年春以来、野球人生でずっと苦手だったインコースの球をうまく打てるようになりました。今ではショート・サード方向に強烈なライナー性の打球が頻繁に飛びます。自分のからだから紡ぎだされてきた、いまの僕にとってホットなことばは、「右肘で身体の軸を押しこみながらインパクトの形をつくる」です。

参考文献

[1] 諏訪正樹. (2009). 身体性としてのシンボル創発, 計測と制御, Vol.48,No.1,pp.76-82.

[2] 諏訪正樹. (2012). “からだで学ぶ”ことの意味 ―学び・教育における身体性―, SFC Journal,“学びのための環境デザイン”特集号, Vol.12, No.2, pp.9-18.

(諏訪研新聞 平成25年6月17日付)