我々の目につくということで、それは「属性」とでもいえばいいのかもしれません。
身体知の学習を目指しているひと(例えばアスリート)は、自分のからだの動作やメンタル面の制御に関して、いろんな点に意識を向けて、その点を制御しようと努力します。例えば、野球選手(右打ち)が打撃に際して、バットを振る際に右肘が身体から離れないように振るべしと留意したとすれば、それは「右肘と身体の距離」という変数を意識したということになります。これは右肘と身体の関係が変数になっているけど、別の選手は右肘だけ単独で、例えば「右肘の角度」を考えるかもしれない。それも変数といってよいでしょう。
バッターは投手が投げる球にタイミングをあわせて打ちに行かねばなりません。タイミングを合わせるために、投手の投球動作の何をみていればいいのでしょうか? これはバッターなら誰でも模索することがらです。投球動作では必ず軸足(右投げなら右足)一本で立つ瞬間がありますが、上げた方の足の膝が降り始める時点をきっかけにバックスウィングを始めるバッターも入れば、上げた足が着地する時点をきっかけにするバッターもいます。いずれにしても、投手の動作のなかに何らかの変数を見出して、それと自分のからだの何らかの変数を時間的に合わせるということがタイミング合わせになります。
動作があるルーチン状態に入ると、いちいちことばで(頭で)身体を制御する必要はなくなります。心理学用語ではこれを自動化(automaticity)といいますが、学習獲得時には意識的に変数や変数間の関係を模索するというメタ認知的模索が必要とされています。生態的心理学のJ.J.Gibsonは、「学習とは即ち変数を獲得することに他ならない」と述べています(Gibson, 1955)。
最近、諏訪研では、まちあるきがホットな研究課題です。
まちを観る感性(それは一種の生活実践知)を養うという研究テーマです。
加藤文俊先生との共同研究でもあります。
その研究の目標は、全員が、まちをつぶさに語れるようになることです。
諏訪と加藤はまち観帖研究において、約1年半でその能力を進化させました。
まちを語れるようになるためには、まず語彙を手に入れなければなりません。
語彙の基になるのが、まさに変数なのです。
まち観帖では、型ことばという一種のパタンランゲージ的なプロダクトをつくりました。
まちに見出せる物理的なものごと × そのときにどのように行動するか/想いを馳せるか
という形式で、現在49枚のカードができています。
×の左側の記述が、諏訪と加藤がまちのなかのどんな「変数」に眼を向けているかを表しています。
例えば、舗装してある道の、道幅方向が平坦ではない なんて記述があったりします(型ことば16番参照)。
数学風、変数チックに言えば、「道幅方向の平坦さ」が変数で、変数値が「平らではない」となります。
まちに/自然環境として、どんな「もの」があるか、それがどんな属性/性質を有しているかをつぶさにみていくと、無限に変数がみつかります。
それがみつかって初めて、その変数を意識してまちを語ることができる。
それが語彙を手に入れるということです。
再度例をあげましょう。
まちのなかに興味を惹かれるお店があったとしましょう。
そこを「少し奇抜でユニークな場所」と描写するに留まるとすれば、それはお店の全体の「雰囲気」を表現したに過ぎない。
そのお店にどんな「変数」があるから、そういうユニークで奇抜という雰囲気が生じるのか? をことばにすることが、変数を意識するという行為です。
型ことばの左側が物理的変数、右側が行為/思考であるとするならば、左側はとかく暗黙知的になりやすいです。
「少し奇抜でユニークな場所」であるという意識は自覚できていても、そのお店のどんな物理的変数がそう自分に感じさせているかを自覚することが難しいのです。
しかし、そこを意識して語れるようになって初めて、まちに潜む変数を見出し、まちを語る語彙を得ることができます。
違うことばで言えば、ここでいう「まちを語る」とは、文学的に優れた表現で語る(型ことば的に言えば、右側だけのリッチな記述)ことではありません。
自分の身体がまちに接して感じているはずの物理的変数(型ことば的に言えば,左側の記述)と、それに自分が込める意味付け(型ことば的に言えば,右側の記述)の両方をセットにして語るという行為です。
まちに潜む変数は無限にありますが、以下のように分類できると思います。
- 1.まちに存在する「もの」
- 2.「もの」の属性(形、大きさ、色、テクスチャなどなど)
- 3.関係(位置関係,対比など)
関係には、「もの」と「もの」の関係、「もの」と自然(例えば太陽、風、湿度など)の関係。「もの」とひと(自分を含む)の関係などがあるでしょう。
参考文献
- Gibson, J. J. & Gibson, E. J.: Perceptual learning: differentiation or enrichment?,Psychological Review, 62, 32-41. (1955)